ゲイリー助川エッセイ集

気まぐれにエッセイを書き綴ります♪

「なぜパチンコを打ちたいのかって?そこにパチンコがあるからだ」

 ずっと「痔痔ネタ」を書いてきたが、今回はちゃんとした「時事ネタ」について書こうと思う。

今回の新型コロナウイルスの影響で自粛が続いている中、大阪は自粛せずに開店している店を公表した。

僕もその昔、毎日パチンコ屋に通っていた人間であるが、当時の気持ちのまま今を迎えていた場合、まずはこの公表されたパチンコ屋がどこにあるのかをチェックすることだろう。自宅からどこが一番近いのか、交通手段は、などを調べるに違いない。

 パチンコをしたことがない人には分からないと思うが、パチンコ屋というのは彼らにとってはあの電光と機械音の空間に入ることが「日常」なんであり、そこに自分という存在を確認できる極めて重要な空間だ。その空間に包まれていよいよ「さてさて今日はどの台を打とうか」などと台の品定めが始まる。

「昨日は30連チャンで一昨日は56連チャンということは今日は絞ってくるだろうか、いや、流れのまま今日も連チャンはいけるかもしれないぞ」などといった台との心理戦。釘についても「お!昨日よりも命釘は開いてるなぁ」などとチェックしたりする。そして「これだ!」と思った台の前に座り、目の前の台と対峙することになるのだ。

そうして対峙しているとやってくる「キュイーン」などという機械音。そして凄まじいほどの電光フラッシュが台を打つパチンカーに浴びせられる。その電光は台を打つ人間に希望を、夢を、そして裏切りと絶望を含んで注がれるのだ。

「キタキタキタキターーーー!!リーチ予告やぁーーー」

「キターーーーー!!!キタキタキターーー!!リーーーーチ来たぞーーー!!」

「うぉっしゃーーーー確変当たったぁーーー」

ただ毎日を普通に過ごしているだけならば、なかなか高揚感を得られる機会は少ない。でも努力なんてする必要もなく、ただただそこに行けば高揚感を得られるのがパチンコというやつだ。競馬のように週2回ではない。365日毎日パチンコ屋は開店しているのだ。こうなると脳が過去に味わった高揚感に支配されるのは言うまでもない。そんな彼らにコロナがどうのなのというのは関係ない話だ。コロナよりも空間に存在することのほうが余程大切なんである。

今回の大阪のパチンコ店公表は高揚感の脳に支配されたパチンカー達には正直あまり意味がないと思う。コロナのことを考えると閉店するのがいいに決まっているが、全ての店が閉まった場合、彼らの高揚感の行末がどこにいってしまうかは心配なところだ。せめて犯罪だけには手をつけないでほしいと思う。