ゲイリー助川エッセイ集

気まぐれにエッセイを書き綴ります♪

ゲイリーコラム―「ルビッチよ!煙を消してくれたまえ!」

 昨日なかなか面白いニュースがあった。

「居場所失った」ということで愛煙家が提訴したんだという。

どういうことかというと、飲食店などの屋内を原則禁煙とする改正健康増進法により、喫煙者が居場所を失い、精神的苦痛を被ったという内容。「おかしいやないか、違憲やないか」ということで、たしかに愛煙家にとっては切実な悩みところではある。

 実は僕も元愛煙家で、18歳から13年間吸って止めた。止めてから14年が経って、ようやく喫煙年数を超えたというところである。今となればもう煙草を吸いたいとは露の程にも思わない。ただ、不思議なことに吸っている夢は今だに観ることがある。何の躊躇もなく普通に煙草に火をつけて「あ、しまった、俺吸ってしまってる。復活してしもてるがな」がいつものパターンで、目を覚めて「普通の」空気を吸ってることを確認して安心するといった具合だ。

 なので煙草を吸いながら食事ができたのが、それができなくなってしまって「どういうことやねん」と憤る喫煙者の気持ちはわからなくもない。昔の僕なら同じように嘆いていたことだろうと思う。

 ところで、こういう喫煙云々の話題が出てくると必ず起こる議論が「文句あるなら止めたらええねん」てやつだ。ただそれは「愛煙家には愛煙家の理由がある」ということを抜きにした個人的な意見であって声高に主張することではない。人それぞれいろんな価値観があるわけで、愛煙家の自由が奪われることについては彼らにとっては一大事なわけである。なので今回の提訴については裁判の判決でどうなるかを決めてもらえばいいのではないだろうか。

 ちなみに僕個人の意見としては、提訴は全然ありな話だと思う。ただ、提訴した方についてはどのような病気になって「煙草を止めないと命に関わりますよ」と言われても、「いや、僕は飲食店でご飯と一緒に煙草を吸えないのはおかしいと国を訴えた人間です。止めるわけにはいきません」と堂々と吸っていただきたい。

また、喫煙者専用の飲食スペースが出来た暁には必ず喫煙者スペースで飲食していただきたいものだ。「今日はえらい煙ってるし、禁煙スペースにしよか」などと言ってはいけない。そこら中「人間煙突」みたいな方々ばかりで、どこもかしこも煙があがり、「えんとつ町のプペル」のような様相であっても、喫煙者スペースで飲食するべきだと思う。「禁煙がなんだ!健康がなんだ!俺達には煙草がある!」こういうスローガンでガンガンに吸っていただきたいと思う。

 僕は煙草を止めた人間なんで吸ってるときと止めた今とがあるわけだが、喫煙所に入ることはもうできない。よくもまあこんな息苦しいところで煙草を吸っていたもんだと思う。「えんとつ町のプペル」の主人公、ルビッチに煙を消してもらって、煙草のない世界の素晴らしさに気づいてほしいと思ったりする。

ミニコラム―「上級国民」から「錠久」国民へ

 ここ2日間くらいで「上級国民」というワードをいくつも目にした。

例の元通産省幹部だった飯塚被告の裁判があったのでこのワードを多く目にしたこともあるが、その他に女優の綾瀬はるかさんが新型コロナに感染して入院したことでもどういうわけか「上級国民」などと騒がれた。

今回飯塚被告が上級国民などと騒がれたのは逮捕されなかったことが発端のようだ。元通産省の幹部だったということでそのように騒がれたが、そもそも上級国民なんてものは存在しないといっていい。一体全体何をもって上級なのかという定義も存在していないからだ。

上級国民というと、多くの方が権力者だからとか金持ちだからとかを想像するかと思う。でもそうだとすると権力者であってもさっぱり被害者に誠意をみせない飯塚被告のように、人間的に大丈夫か?という人が「上級」でいいのか、はたまた金持ちでも詐欺で稼いで金持ちになった人間も「上級」なのかという話になってくる。なので、国民全員が「一般国民」でいいのではないだろうか。

 ところで、綾瀬はるかさんが入院されたことについて、これだけコロナ感染者が増えて入院できない人がたくさんいる中で、入院できているのはおかしいということで「上級国民だから」と騒がれているが、このことについて堀江貴文さんが「医者や病院などのコネがなくてもお金を積めば入院させてくれるところはあると思う」とTwitterで述べている。

 おそらく堀江さんほどの情報網が恐ろしく張り巡らされた方が仰っているかぎりそういった事例はあるんだろう。ただ、このことについて「やっぱり金か!金を積んだ奴を優先するのか」といった批判も出てくることだろう。

 しかし、日本という国が金持ちに有利になるような国運営をしている以上、金を積んだ人間を優先にするのは当たり前だといっていい。これは何も日本だけでなく、資本主義国家である国はほとんどがそうだ。「一般国民」でも金持ちが圧倒的に有利な世の中なんである。こんなことはもう誰でも気づいているはずだ。

 それをどうのこうの批判すること自体がおかしい話であって、批判する暇があるならば、せっせと金を稼ぐ勉強をするなり働くなりすればいい。だからといって詐欺を謀ってでも金を掴んだらいいというわけではないが、努力はしなくてはいけないだろう。こういった批判する人間に限っていざ目の前に大金を積まれたら目の色変えて寝返ったりする。「だまれ貧乏人」などと叫んだりするはずだ。

 かく偉そうに著述している僕はどうなのかというと、さっぱり金のないサラリーマンだ。だからといって批判したりはしない。今にみてろと思っているだけだ。

 

 

 

読書感想文という壁

 これを書いているのが8月29日ということで、30数年前の今頃は夏休みの宿題が終わらないかもしれないとヒイヒイ言ってるところだ。


 とりわけ最大の壁は読書感想文であって、たかだか原稿用紙5枚ほどを書くのに1週間はかかった。
そもそも読書感想文は必要なのかを考えたときに、これはちゃんと本を読んだことを証明する証明書の役割なんだと思う。長い夏休みの中で本の一冊でも読まんかぇという教育委員会の圧力なんだろう、本を読んだことを証明してくださいというわけだ。僕たちは只々その証明書を作成させられていたわけである。


 それにしても小学生の僕は感想文を書くのがどうにも苦手で、幕内弁当の椎茸の煮物を丸のみするくらいの嫌悪感すら感じた。ただ感想文というのが何なのかを全く理解していなかったというのもある。


「感想を書け」というのは親も教師も口を揃えて言うものの、感想なんて正直「面白かった」「かわいそうだった」など、一行で終わってしまう。あと4枚以上何を書いていいのかわからない。面白い以外の感想なんてないわけで、仕方なしに本の内容を書いて何とかマスを埋めていくことになる。「終わった」と喜ぶのも束の間、「これはあらすじや。感想じゃない」と親から指摘が入る。こうなったら八方塞がりで、感想を書いたら一行、マスを埋めたらあらすじになるわけだ。
「感想文てどう書いたらいいかわからん」
「感想書いたらええねん」
このやりとりが続いて、結局痺れを切らした母親がサクっと書き上げてくれて終わった。


 こんなことだから読書感想文に対していい印象なんてあるはずもなく、例えば一緒に映画を観に行った相手が原稿用紙5枚分の感想の述べるような輩だったら、そんな奴とは絶対に映画なんて観に行かないとか、訳のわからない屁理屈を言ったりする。こういった映画などの感想はスパっと一行で述べてほしいものだ。僕の友人はある時、気になる女性を誘って映画を観に行ったが、映画が始まるなり船を漕ぎだしたそうだ。「映画どやった?面白かったな」と聞くと「う、うん。。。」と返ってきて、一行での感想がいいといってもこれはこれで困る話だ。


感想というのは、おそらく本当に感動すれば、なかなか言葉で表せないものだと思う。言葉にできない「。。。。」が本当の感想なんだろう。
30年以上経った今もまだ読書感想文があるようだが、小学生諸君には是非とも「。。。。」と書いた奇抜な感想文を提出してみてほしい。

もし今、新郎の苗字が渡部さんで、新婦の苗字が佐々木さんというカップルから結婚披露宴の招待状が届いたら

 今は新型コロナの影響で、結婚式は延期にされたり中止になったりと、結婚される方々にはこれから訪れる幸せの絶頂に水を差された感じだ。一生に一回かもしれないし、二回かもしれないし、三度目の正直かもしれない貴重な式だけにコロナが収束した暁にはなんとか執り行ってもらいたいと思う。

 ところで、結婚式というと事前に招待状が送られてくるわけで、出欠のハガキと催される会場の他にざっと新郎新婦の名前くらいは眺めるものだ。

ことに新婦側での出席となると苗字が誰々になるのかぁくらいは考えたりするものだと思う。

 さて、ここでもし、この度めでたく結婚することになった新郎の苗字が渡部さんで、新婦の苗字が佐々木さんという二人から結婚披露宴の招待状が届いたらと考えると、それはそれは頭の中も賑やかになるに違いない。新郎新婦のどちらも知っている方ならともかく、片方しか知らない方にとっては昨今の報道も相まって、先入観はしっかりと形成されているので、想像力という熱気球を存分に膨らませることができるはずだ。特に新婦側の関係者としては親戚ではなく、友人や同僚といった一定の距離がある方々には最高の酒の肴になるネタといえる。

 例えば、新郎を知らない新婦側の友人同士のグループLINEがあった場合はこんな感じになるのではないだろうか。超自分的視点にはなってしまうが見ていただきたい。

「N子(旧姓佐々木)から案内きた?」

「来た来た。相手の苗字渡部やん」

「そうそう、大丈夫かなぁ、この二人」

「あの渡部と佐々木ではないけど、そう思ってしまうよね」

「どうする?新郎のお父さんの名前が『文春』やったら」

「ふみはる??ふみはるならありえそう(笑)いや、それならN子のお父さんが文春のほうが面白くない?(笑)」

「お父さんがそうでなくても弟とかが文春とかなら面白いのに」

「ほんで、誰か新潮て名前の人が大騒ぎになるな」

「そんな名前おらんやろ」

「桂新潮とか」

「落語家か!」

「そうそう、それはいいとして、この二人って同じ会社みたいやで」

「オフィス・ラブか(^o^)」

「オフィス・ラブならいけど・・・トイレラブやったら嫌やな」

「www」

「3分の恋が積み重なって・・・みたいな」

「3分やで!カップヌードルか!」

「キューピーのクッキングか!」

「ボクシングの1ラウンドか!」

「聞いた話、ウルトラマンも活躍できるのが3分みたい」

「3分てさあ、スキマ時間やん。スキマ時間にトイレで心のスキマ埋められたら喪黒福造の出番がなくなるっちゅうねん」

「ほんまは本人が『ドーーーン』てしてもらわなアカンのに『ドーーーン』の前に『コト』が終わってしまってるもん。だから『ドーーーン』されへん」

「wwwウケる」

「いや、まあでもほんまに相手どんな人なんやろな」

「N子面食いやからカッコいいんちゃう」

「相手がっつり複数と不倫するかもしれんで」

「『歩く濃厚接触』みたいな男かも(笑)」

「新郎の紹介てどんなんやろ。高校時代は野球部で趣味はおいしい店巡りみたいな」

「野球部はそのままでも趣味はさすがにそれにしたらまんまやし、変えてくるんちゃう?」

「トイレ掃除とか」

「せやからトイレはアカンてwww」

「友人挨拶がさ、大嶋さんとか中島さんとかにしてほしいな。児島さんていたらサイコーやけど」

「それでは新郎のご友人であられます、児島様より・・・」

「間違えろよ!みたいなwww」

「渡部君は歩く濃厚接触と言われてまして・・」

「渡部君の新居はオフィスから徒歩3分のところです」

「渡部君はスポーツマンで1キロを3分で走ります」

「より詳しい新郎を知りたければ『ネットを見ろ』とか」

「それ攻めすぎやな」

「二次会のビンゴとかでさ、渡部君の3分間クッキング〜〜」

「今日トイレで料理される女の子は・・・」

「wwwだからそれアカンて」

「私が指名されたらどうしよ・・」

というように紙面の関係上、このあたりで止めておこうと思うが考えれば他にもゴロゴロと話は湧いて出てくることだろう。本番の式が始まるまで脳みそパンパンの想像力で支配されるに違いない。

 さて、今度は新郎側であるが、こちらは非常にシンプルであって、焦点は新婦が美人かどうかだ。あとは場の雰囲気的に渡部君をいじり倒せるかどうかといったところだろう。「本物」の佐々木さんが最上級の美人である以上は、ほぼ誰が来ても見劣りしてしまうに違いない。なので後ろにズテーンとひっくり返る心づもりでいる必要があるかもしれないが、どの程度の美人であるかは見てしまうものだ。新婦も基準が「本物」と比較されてしまうのでこれは気の毒な話だと思う。

 ただ、僕は新婦には言い方は悪いが「普通」の人であるほうが良い気がする。本物とはいかないまでも美人であった場合はやはり本家本元に似た関係性を思い浮かべてしまいそうだ。つまりは報道のような様相である。なので波風を立てないという点では「普通」が素晴らしい。

 先入観というのはあるよりないほうがいい。中には楽しめるものもあるが、あることによって思考がマイナスに傾くことがある。今回の渡部さんも本当に不倫してしまった際は

「ほらぁ、やっぱり渡部って名前の人って・・・」

と考える人もいるだろう。

こうなると本物とは正反対の真面目一徹渡部さんだったら可愛そうな話だ。

このように先入観で嫌な思いをされた渡部さんには是非とも喪黒福造に心のスキマを埋めてもらいたいものだ。

「私がアナタの心のスキマをお埋めいたしましょう。た・だ・し、多目的トイレは絶対使ってはいけませんからね。ホーッホッホッホー」

全国の渡部さんには頑張ってほしいところだ。

あいうえおエッセイ 「た」―立ち飲み

 立ち飲みの素晴らしさに気づいたのは今から8年くらい前の話で、当時は大阪は梅田のど真ん中に職場があったので、梅田地下街を中心に安く飲める立ち飲み屋が何軒かあった。

 そんな中でも、今は改装してなくなってしまったが、ホワイティうめだにあった「七津屋」によく足を運んだ。

 ここのいいところは何と言ってもその安さで、生大が390円。生大は700mlなので、これ一杯で缶ビール2本分になる。これを2杯とアテに180円のゲソ焼きを注文しても1,000円にならない。せんべろにはうってつけのお店だった。

 立ち飲みは居酒屋のように腰を据えて飲むのとは違って気軽に飲める。居酒屋のような何かに気遣うこともなく、好きなときに来て好きなときに帰る。それでいて安くて旨くて話が盛り上がるなら、そのほうが気分も財布も軽くていい。

 僕は大体が同僚と飲みに来ていたが、仕事が終わるのが遅くて、大体閉店1時間前くらいに訪れていた。1時間くらいだと居酒屋なら踏みとどまるところでも「七津屋いこ」の一言で簡単に足が向く。それで、このお決まりのせんべろコースで張り詰めていた神経の角をトロトロと溶かしていたわけだ。ただ、ちょうど話が盛り上がった段階で閉店時間が来てしまうので、そうなると盛り上がった火種を消すのはなかなか難しい。結局場所を換えての「延長線」が始まるわけだ。

 延長線の舞台は大阪駅前の歩道橋の階段だった。コンビニで買った缶ビールを片手に終電まで1時間くらい飲んだくれる。それでも居酒屋で飲むよりはかなりの安上がりで楽しめた。だから立ち飲みバンザイだったわけである。

 ところで、この立ち飲みを覚えてしまってからひとつだけ不都合なことが起こった。宴会がある前に立ち飲みで喉を潤すという変な習慣がついてしまったのだ。宴会まで30分あるとなれば、待つのも面倒くさいし、七津屋に行こうというわけだ。でもこれはほんの序の口で、ついに宴会が始まる21時まで待てない人のために0.5次会なるものを作った。

 僕はサービス業だったので、シフト制で早番、遅番がある。宴会は全員参加なので、遅番が終わる時間を目処に設定される。だから21時なわけだ。そうなると18時や19時に終わる早番連中がウズウズするわけで、そんな僕を含めた連中で0.5次会を催した。そのうち、この0.5次会自体に人が集まるようになってしまったのだ。

 でもこれがいけなかった。立ち飲みですでにベロンベロンになってしまうわけで、本ちゃんの宴会が始まる頃には僕を含めて0.5次会に参加したメンバーがすっかり出来上がってしまっているのである。

 そうなるともう宴会の内容なんてさっぱり覚えていないわけで、翌日出勤するときは自己嫌悪と「何かしでかしていないか」でドキドキしながら出勤することになる。

「昨日ですか?日本酒をストローで啜ってましたよ」

「ハリセンでガンガン頭しばいてました」

などと言われてその日一日はがっつりと凹みながら仕事をすることになってしまうのだ。

こういった宴会の内容をさっぱり覚えていない「記憶にございません宴会」をなくすために、ついに0.5次会は縮小となった。ジョッキは2杯まで、その他は飲まないと決めて、きちんと記憶のあるうちに宴会へと突入することにしたのだ。

 そうして記憶のあるうちに宴会に突入してどうなったのかというと、結局は相変わらず次の日にドキドキしながら出勤していたのである。酒飲みなんてそんなものだ。

あいうえおエッセイ 「そ」―即席ラーメン

 チキンラーメンを食べるとおばあちゃんを思い出す。

僕はおばあちゃん子で、小さい頃から小学6年生くらいまで、よく実家近くにある祖父母の家に泊まりに行ってた。

 だいたいが週末に泊まりに行っていて、日曜日の朝に出てくるのがチキンラーメンだった。トッピングはネギだけ。後は子供だった僕が食べやすいようにしてくれてなのか、それともただ単に時間を誤っていただけなのかわからないが、ちょっと箸に力をいれただけで簡単に切れてしまうほどの「のびた」ラーメンだった。

 中学生になると思春期に入って、泊まりにいくことはなくなったが、即席ラーメンを作るということを覚えてしまって、それが楽しくて家にあるものを片っ端から作るようになっていった。そんなことだからどんどんと太っていってしまった。

 ところで、袋麺にせよカップラーメンにせよ、誰しもが特に好きなブランドというのがあるはずで、僕の場合はハウス食品の「好きやねん」である。

 これはネーミングからして関西メインの匂いがぷんぷんするが、やはり関西でしか販売していないようだ。醤油味の商品で、もう30年程愛食している。何がおいしいのかと聞かれてもなかなか説明のしようがない。只々美味しいとしかいえないのだ。他、「うまかっちゃん」なり「サッポロ一番」なり美味しいのがたくさんあるが、どれもどう美味しいのかが表現できない。なので、こういった即席ラーメンの食レポをさせると笑顔で「美味しい」としか言わない、かなりつまらない食レポになるはずである。

 今、袋麺にせよ、カップラーメンにせよ種類が多くなってきて何がおいしいのがわからなくなってきている。そんな中、You Tubeではこういった即席ラーメンをより美味しく食べる方法とか、麺を崩して違う食べ方をしたりとそういった動画が多くなってきている。僕も試しにある方の動画を見て、チキンラーメンを崩したチャーハンというのに挑戦してみた。作り方はいたってシンプルでチキンラーメンをグチャグチャに崩してからお湯に浸ける。その間に卵とご飯を炒めて、ある程度お湯を吸い込んだチキンラーメンを投入して一緒に炒めれば完成。炭水化物満載の一品で、かなり美味しいことを期待して食べたが、それほどでもなかった。

やっぱりラーメンはラーメンのままで食べるのが一番なんだと思う。

 

あいうえおエッセイ 「せ」―選手宣誓

 人生で一度だけ選手宣誓をしたことがある。

これは拝命されたというような高尚なものではなくて、くじ引きで泣く泣く「させられてしまった」のだ。

 僕は小学5年のとき、所属していたソフトボールチームのキャプテンになった。これもまた拝命されたというようなものではなくて、僕ともう一人以外は全て4年生で入団が遅かった僕は自動的にBチームに所属となった。年功序列で自然とそのBチームのキャプテンになったわけである。

 市長杯大会に出るのに、Bチームキャプテンの僕とAチームのキャプテン、それぞれの監督と4人で抽選会場に向かった。

 抽選は麻雀牌くらいの大きさの木でできたものがズラっと一列に並んでいて、その裏に数字が入れられている。この番号がそのままトーナメント表にある番号なわけだ。従って1か2を引くと第1試合となって、開会式直後にいきなり試合である。しかも1を引いてしまうと選手宣誓というオプションまでついてきてしまうのだ。

 正直、僕のチームはどこと対戦しようがほぼ勝ち目はない。そうなると「1を引かない」ということだけが全ての焦点となっていった。

 僕のチームが呼ばれて、壇上に上がるとズラッと並ぶ駒を眺め、真ん中が怪しいからとやや右側の駒を取った。そして裏の数字を見て血の気が引いたわけである。

 帰ってからは監督が考えた選手宣誓をただひたすら暗記することにした。なんといっても翌朝が大会なんである。素振りをして調整とかそんなことはどうでもよかった。

 そして大会を迎えたわけだが、寸分を開けることなくただひたすら頭の中では選手宣誓の文言が流れていて、朝飯も会場に向かう車の中でも、キャッチボールのときも、頭の中は選手宣誓だった。

 アクシデントが起こったのはいよいよこの後に選手宣誓をするといった場面だった。市長杯というだけに市長が挨拶をする。話の内容そっちのけで選手宣誓を呟いていたのが、急に真ん中の部分が抜けてしまった。そして思い出せなくなってしまったのだ。そうして思い出せないまま、ついに選手宣誓を迎えてしまったのである。

 あのときの心境たるや、腹も括れず、覚悟も決まらず、只々うろたえるキャプテンがそこにいて、弱虫意気地なしの自分が全面に出てしまった。そして選手宣誓が始まり、問題の真ん中のフレーズまで来てしまった。やはりというか、僕は無口になった。思い出せなかったのだ。急に黙りだしたので、周りがざわつき始めた。それで思い出せなく、真ん中を抜いたまま最後の覚えているフレーズを言って締めくくった。

 今考えると真ん中が抜けた宣誓は非常に恥ずかしいものだった。

「宣誓!僕たちは・・・頑張ります」

みたいな宣誓だ。間違ってはいないが

「それだけか」

と言われても仕方のない内容スカスカの宣誓であってそんな内容に一日がかりで頭を悩ませていたのだ。

 結局、開会式後の試合で、ホームベースのかなり手前のボールを空振りして三振した。選手宣誓のせいにするあたりの気質は今も変わらずそのままである。

あいうえおエッセイ 「す」―スイミング

 小学1年生から4年生までスイミングスクールに通っていた。今でもこれは本当によかったと思っている。おかげで運動神経がイマイチな自分も人並みに泳ぐことができた。なので学校の水泳の授業はそこそこ自信を持って臨めたのである。もし、スクールに通っていなかったら身体はプールに浸かっても顔は水面に入っていないにちがいない。プールに入ったまま全く動かずにいて「お前は風呂に浸かりに来たんか」とツッコミが入っても仕方ない状況になっていただろう。

 ところで、水泳の授業というのはもう全くカナヅチな子というのもいて、これは見ていて面白くもあり可愛そうでもあった。水泳というのは運動神経云々の前にまず、水に対しての恐怖心を取り除く必要がある。これを克服しない限りはいくら運動神経が良くてもまともに泳ぐことはできない。水が怖い子というのはどうしても顔を上げたがるので、そうすると身体が沈んでしまって、なかなか前に進むことができないわけだ。僕はそんな溺れているのか犬かきなのかという気の毒な子を何人もみてきた。

 水泳というと、今でこそテレビで世界選手権が放送されてて脚光を浴びているが、僕が小学生の頃は今ほど注目はされていなかった。

 そんな中、一時水泳ブームとなったことがあって、それは何といってもソウル五輪鈴木大地選手の金メダルである。残り数メートルで逆転して金メダルを獲ったことも素晴らしかったが、子供だった僕たちを惹きつけたのは「バサロ」と呼ばれる潜水泳法だ。

 今でこそこのバサロは規定で15メートルまでと決まっているが、ソウルのときは決まっていなかった。だからどこまで潜水したままいけるのかというのが注目のひとつだったわけだ。

 あの金メダルを獲った100メートル背泳ぎ決勝をテレビで観ていたが「浮かんでこない」美しさ、格好良さというのに僕は完全に惹かれてしまった。洋上に豪華客船がある中、いつ浮き上がってくるかもわからない潜水艦を見ているようなドキドキ感があった。そして鈴木選手はなかなか浮き上がらない魅惑の潜水艦だったんである。

 このバサロブームがあった数年後、僕は久々にバサロという言葉を耳にすることになる。

「バサロ〜」と呼ばれて振り向いた長身の男子学生はバレーボール部のアタッカーで、なかなか強烈なアタックを打つ猛者だった。彼がバサロと呼ばれる理由が水泳の授業でわかった。プールへ飛び込んだ途端、両手両足をバタバタさせて一向に進まない「プロ」のカナヅチだったんである。それをからかってのバサロだったんだろう。彼は誰からもバサロと呼ばれていて本名がずっとわからなかった。鈴木君だった。なるほどなるほどバサロと呼ばれるわけだ。可愛そうな話だ。

あいうえおエッセイ 「し」―しいたけ様

  物心がついたときにはすでにそれが大好きになっていたという食べ物が人によってあると思う。

 僕の場合はカレーライスとスナック菓子のカールうすあじで、この2つについては現在も揺るぎなく断トツに大好きである。

 その反対に、物心がついたときにはすでに大嫌いになっていたというのもあって、それは大横綱「しいたけ様」である。このしいたけ様については現在も揺るぎなく嫌いで、もう40年以上悪役の大王として君臨されている。

 このしいたけ様について調べてみると、大好きな人と大嫌いな人にぱっかり分かれるらしい。そして、一度嫌いになるとなかなか好転することはないようだ。なので、恋愛でいうところの「始めは嫌いだったけど段々良いところが見えてきて、交際に発展した」なんてことはしいたけ様に限ってはありえないわけである。そして僕もその例外を外れることなくしいたけ様の良いところが今の今もさっぱり見出だせないままだ。

「それは食べようとしていないから。食わず嫌いなのではないのか」このように言う方もいらっしゃるが、物心つく前に一度口にしていてそれが全く駄目だったんだろう。僕は全然記憶がないが、ある日親戚の家に行く際に、僕は何が食べれないかを母親に聞いたらしい。そのときの解答が「しいたけ様」だったようだ。なので、こんな物心つく前から嫌いというのは本能的に受付けなかったわけで、本能に貼り付けられた「しいたけは嫌い」という札は劣化していて黄ばむことなく今もキレイに貼り付けられたままである。

 ところで、僕も物心ついてから、しいたけ様に挑戦状を叩きつけたことがないわけではない。一度、嫌いを克服すべく決死の覚悟で挑んだことがあるのだ。確か生しいたけの煮物だったと思うが、結果は瞬殺のTKO負けで、その後は「口の植民地支配」ともいうような、まさに息を吸っても地獄、吐いても地獄の様相で、それを打ち消しかのごとく他のものを食べるもののしいたけ様は後から必ずやってくるわけだ。それからというもの、しいたけ様に挑戦する気持ちはなくなった。

 ところで、このしいたけ様、何故お弁当の中にあんな偉そうに君臨されているのかわからない。美しい焼鮭の向こうにいつもほくそ笑むように鎮座している。僕は18年間デパ地下で勤務していたが、閉店後になると売れ残ったお弁当を貰ったりしていてそれはそれは嬉しい話だった。ただ、家に帰って蓋を開けると、きっちりしいたけ様が「残念でした〜」という顔で主張してくるわけである。それも匂いまでなかなかの主張ぶりで、お弁当を食べる前にまずアクならぬ悪を取り除いていくところから始まる。しいたけ様をつまんでは細君に渡して、そこからようやく「本当のお弁当」を食べることになるのだ。しいたけ好きの方にはありがたい話なんだろうが、しいたけ嫌いには只々邪魔なだけである。

 この先、しいたけ様を好きになることはないだろうと思う。しいたけ好きになるなら、一年中しいたけしか食べれない病院に入院するか、催眠術でしいたけ好きにしてもらうしかない。ただ、催眠術でしいたけが食べれるようになる反面、副作用的要素で、今の自分ではない自分が顔を出すかもしれない。

 そうなったら多分今の自分とは真逆の「真面目な」僕になっていることだろう。なので、今後もしいたけ様とは距離をおこうと思う。

あいうえおエッセイ 「さ」―サンタクロース<後編>

 僕は小さい頃からプロレスファンで、マスクマンのレスラーを数多く見てきたわけだが、小学生にもなれば、そのマスクの下には素顔のレスラーがいることくらいは想像できた。「おかあさんといっしょ」のガチャピンにしても、ミッキーマウスにしても、中に誰かが入っていることはなんとなくわかっていた。

 ところが、不思議なことにサンタクロースについては中に誰かが入っているとは全く疑わなかったんである。そして純粋で素直で真水のごとくキレイな心の持ち主だった僕は、疑いなくそのまま中学生となっていったわけだ。

 そしてそれは突如としておとずれた。

中学一年生のある日、数学の授業で担当の田中先生が

「サンタクロースなんていない」という話をしだした。どういういきさつでそういう話になったかは覚えていない。

「大体そんなん現実的に考えて一軒一軒夜に廻ってプレゼントを置いていくわけがない。サンタクロースはなぁ・・・お父さんお母さんや」

 これを聞いた瞬間、一人の女の子が声をあげて泣き出した。

「嘘や嘘や、そんなわけがない」そう言って顔を突っ伏しながら泣きじゃくりはじめたのである。それを見た周りの男子生徒は

「えーーー!そんなんも知らんかったんか?ありえへんぞ」やら「お前気づくん遅いって!」

などと騒ぎだした。先生も生徒は皆中学生なので、もうこんなことくらいはわかっているだろうと見込んで話をしたに違いない。ところがこの女の子はわかっていなかったのだ。

 そしてもう一人、他の男子生徒に便乗して女の子を蔑むように騒いでいた一人の男子生徒も実はわかっていなかったのだ。僕である。「なんで知らんねん」などと女の子に言い放っていながらも、僕の顔は教室にいた誰よりも真っ青になっていたにちがいない。

「そんなアホな、、、サンタクロースが親なんて、、、そんなアホな」

 僕はその時、保育園に来たサンタクロースであったり、家に来たサンタクロースのことを思い返していた。じゃああれは誰だったんだ。サンタクロースというのは本当にいて、夜になれば枕元にプレゼントを置いてくれる。それも日頃、子供が何が欲しいかをちゃんと調べていてクリスマスに持ってきてくれる。そんな幼少から信じてきた観念がもろくも崩れ去ったのである。かくして僕は、長年思い続けていたものが子供からの夢が崩れることの辛さをここで思い知ることになったわけだ。

 そういったかわいそうな事件があったので、中学生時の成績が悪かった理由としては「サンタクロースの正体が明かされたから」ということにしている。

じゃあ高校の成績が悪かったのは?大学受験で2回失敗したのは?社会人になって失敗してきたことは?これらについても「サンタクロースの正体が明かされたことが引きずって・・・」こんなことばかり書いていたらフィンランドから本物のサンタクロースが来て、お叱りのプレゼントをいただくことになるに違いない。

 純粋で素直で真水のごとく清らかな僕の心は、年数を重ねて今や濁って底が見えなくなってしまった。それは長く生きている中ではいろんな考えや思いが他から入ってくるわけであって、でもじゃあ誰が心を濁すのかを考えると結局は自分自身である。そして、昔のように透明感の多い清水に戻すことはなかなか難しいけれど、今よりも少しずつ濁りを減らしていくことはできるかもしれない。そしてそれができるのもこれまた自分自身なわけだ。人生の後半戦はそういった作業になっていくと思う。

あいうえおエッセイ 「さ」―サンタクロース<前編>

 今回のテーマは「サンタクロース」。5月下旬だけど「サンタクロース」。「サ」といえばこれしか思い浮かばなかったんだから仕方がない。

 サンタクロースに関しては今まで衝撃的な事件が2つあって、ひとつは小学2年生のときにサンタクロースからプレゼントを「貰えなかった」こと。もうひとつは中学1年にしてようやくサンタクロースの正体がわかったことだ。

 僕は幼少の頃からクリスマスにはサンタクロースがプレゼントを配りに来てくれる環境に身を置いていたので、クリスマスは毎回楽しみだった。通っていた保育園にはサンタクロースがやってきたし、自宅にもクリスマスイブに2回サンタクロースが現れた(後々誰かはわかったけど・・)こうして僕はクリスマスには毎回サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれるものと認識していったわけである。

 ところが、小学2年生のクリスマス。朝起きると枕元には「枕」しかなかったのだ。

前日、僕は欲しいプレゼントを画用紙に書いて玄関に貼り付けていた。確か色えんぴつを使って絵にまでして描いていたはずで、ただ、今になってしまえば欲しかったそれが何だったかは覚えていない。

「サンタクロースはきっと僕が描いたおもちゃを持ってきてくれるはずだ」そうしてワクワクしながら朝を向かえた結果がこれだったわけだ。それでも小学2年生だった僕はサンタクロースが来ないというのは信じられないもので、「きっと夜には来れなくなっただけだ」とクリスマス当日は一日中サンタクロースがやってくるのを待ちわびていた。しかしながら時間が経てど経てど玄関のチャイムが鳴ることはなかったのである。諦められない僕はもう一日待ってみようと翌日の朝に期待はしたが、結果は同じだった。

 26日朝も枕元には枕しかなかった僕に母親がかけた言葉は「勉強せえへんかったからちゃうか」だった。たしかに直前の2学期の成績は散々たるものだったが、それでも勉強ができないという理由でサンタクロースが来ないということがあるのだろうか。ショックで泣いたのかまでは覚えていない。ただ、これを機に「ちゃんと勉強して来年は絶対にプレゼントを貰おう」と誓ったのは覚えている。かくして、来年は絶対にプレゼントを貰うべく、その日から冬休みの宿題に取り組んだ。

 ところが、勉強するぞという意気込みはその日一日だけだったようで、翌日からはいつも通りのだらしない生活が始まったわけである。

「ゲイリーよ!立て!悲しみを怒りに変えて、立てよゲイリー!」

そういった母親の叫びは一日しか届かなかったのだ。

 ところで、こういった悔しさをバネに頑張るということが「一日限定」というあたりは残念ながら今も続いている。例えばゴルフだと、コースに出て酷いスコアだったらとても悔しい。「次はしっかり練習していいスコアで廻るぞ」と帰りの車では闘志を燃やすもののその日まで。翌日には練習場にいくのが面倒になっている。

 勉強もそうだ。高校3年に時、受験に失敗して全ての大学に落ちて涙まで流したにも関わらず、悔しさは一日で終わった。翌日からは机に座るだけで一日中ボーッとしてる。そんなことだから大学に入るのに2年も回り道をしてしまった。

 僕は今、40歳半ばで、悔しさを感じる機会が昔より減ってきている気がする。でもそれは行動する範囲が変わっていないだけで、今後いろんなことに挑戦すればするほどそういった機会は増えていくはずだ。ただそれを力に変えていくエネルギーは「一日限定」になる可能性はある。なので今年のクリスマスは

「悔しさをバネに頑張れる人間にしてほしい」

と画用紙に描いて玄関に貼り付けておこうかと思う。きっとサンタクロースが現れて、25日の朝から闘志剥き出しの「漢」になっているはずである。

 

 

女子プロレスラー木村花選手逝去について<後編>

 後編はSNSを中心に綴っていこうと思う。

引き続き、今の段階で知っている情報と僕の推測で著述するので誤りがあればご容赦いただきたい。

 今回の木村選手の死去についてはテラスハウスに出演した際のSNSでのバッシングが原因とされている。中でも自分のプロレスのコスチュームを誤って洗濯された上、縮んだことに激怒したことがバッシングの引き金になったとされているようだ。

 SNSでの誹謗中傷というと、お隣韓国ではアイドルや俳優などがそのことで深く傷ついて自殺したというケースが多く、その報道がなされる度に、何故そんなにSNS上でのことを気にするのだろうかと首をかしげたものだった。でも当の本人はコメントの一つ一つがナイフとなって心に突き刺さっていったんだろう。

 さて、ここで人のものの見方、受けとめ方についてみていこうとおもう。

 実は僕はキャリアカウンセラーという資格の保有者で、養成講座を受講した際にこのことを教わった。

 例えば「空港」というとどのようなことを思い浮かべ、どのような気持ちになるかを考えたとき、

「旅行に行くようで、ワクワクした気持ちになる」という人や、

「離島にある実家を思い出して懐かしい感じがする」という人もいる。

その反面、

「空港というと辛いことしか浮かばない。ハネムーンで離婚することになったから」

などと言う人もいるわけで、つまり「空港」というひとつの実体や事実に対して人によって見方が全然違うわけだ。

 これと同じように、人に何かを言われた、書かれた、態度を取られたなども人によって解釈はまるで違ってくる。SNSで「アホ」「ボケ」「死ね」などと書かれても、

「それは面と向かって言われたわけではない。SNSなんて空想の世界なので全然気にならない」

と平然としている人もいれば、逆に大きく心を痛めてしまう人もいる。また、これらのことを言われて平気と言っている人でも例えば「臭い」というワードが出てきた途端に全ての思考が停止してしまうほどのショックを受けるなんてこともある。そんな人に深く話を聞くと「実は小学生のときに・・」などと「臭い」で傷ついたことに関連する自己概念が姿を現すわけだ。

 だから人のよって受け止め具合は様々で、心の傷の深さは違ってくるわけである。

 今回、木村選手に浴びせられた誹謗中傷については目を覆いたくなる内容のものばかりで、これに対して彼女はまともに受け止めてしまったと考えられる。かなり真面目な性格で、努力家だったというところからも、やはりそういった自分が出演していることに対しては敏感に反応していたんだろう。そして送られてくるこういった内容を毎日見ていると脳も自然とそういったものだと認識するようになってくる。

「死ね、気持ち悪い、消えろ、今までずっと私が1番私に思っていました」

「顔も中身もブスでごめんね。消えれるものなら早く消えたい」など彼女自身が投稿しているが、今までずっと思っていたというのはいつからそのように思っていたのかが気になるところだ。実は結構昔からそのように思っていた節があって、元々自尊心が下がっている段階で追い打ちをかけるように誹謗中傷を浴びた可能性はある。「やっぱりそうよね。自分ってそんな人間よね」と変な納得をしてしまったのかもしれない。それがついに最悪の結末となってしまった。

 ところで、このテラスハウスという番組については一度も見たことがなく、ネット等の情報だけになってしまうのだが、一応基本的な台本は存在していたようである。ただ、どこまで仕上がった台本なのかはわからない。番組側は木村選手に一体何を求めていたんだろうか。また前編でも綴ったが、所属団体「スターダム」はこの番組に木村選手が出てどうあってほしかったのか。このあたりが全然わからない。そしてスターダムも彼女が出演する目的がスターダムの宣伝というのであればきちんとした台本を用意する要請はしなくてはいけなかったはずだ。

 番組中、木村選手はひとりのバスケットボール選手にアタックしたものの叶わぬ恋となったようで、このバスケ選手は誰とも恋愛しないまま卒業したとのことだ。例えば、スターダムにお客さんを呼ぼうとするなら、このバスケ選手が卒業したあとに木村選手のライバルとされる女子レスラーと恋仲になるという「ギミック(しかけ)」が作られていたのなら面白かったかもしれない。そうすればテラスハウスのファンも会場に足を運ぶことだっただろう。

バスケ選手が振った女(木村選手)vsバスケ選手と恋仲になった女(ライバルレスラー)―

そういったきちんとしたギミックがある上で、しっかりと台本があり、木村選手の番組内での役割をきっちり伝えていたとしたならば、誹謗中傷に対する彼女の見方も変わっていたのかもしれない。そう思うと非常に残念だ。

 もう木村選手は亡くなってしまって本人の口からは何も聞くことが出来ない。真相は闇のままだが、彼女が浮かばれるためにもSNSでの規制というのは必要になってくる。そんな中、コロナ対策で後手後手で批判を受けた政府がこの問題に言及してきた。これについては非常に素晴らしいことで是非とも匿名で誹謗中傷する輩を取り締まる法を作ってほしいものだ。

 また、女子プロレス界についてもこれを機にSNSに対する啓発であったり、メンタルチェックを行う必要はあると思う。そして団体としてのあり方、選手の扱い方についてはしっかり考えていかなくてはいけない。

 そして何よりも命の教育の大切さだ。毎日毎日誹謗中傷ではなく、

「あなたはすごい人、あなたならできる」と褒められる投稿であったならセルフイメージは180度変わっていたはずである。子供も大人も命の大切さや、人を褒めることの素晴らしさを僕も含めて学んでいく必要があると思う。

 

 最後にー

木村花選手、「産んでくれてありがとう」いう遺書が見つかったそうです。

本当はどうしても生きたかった。生きて生きて、でもそれがもうできない。

そんな無念さが垣間見れる一文だと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

 

女子プロレスラー木村花選手逝去について<前編>

 今後、僕が真面目なことを書くときはあまりよろしくないことが起こったときだと思ったほうがいいのかもしれない。今回非常に残念なことが起こってしまった。

 女子プロレスラー木村花選手が死去したというニュースが飛び込んできて、プロレスファンだけでなくテラスハウスの視聴者も唖然としたに違いない。謹んでお悔やみ申し上げたいと思う。

 今回は、今現在の情報と僕の推測などを含めた著述となるので、誤りがあるかもしれないが、そこはご了承いただきたい。また、前編後編と分けて、前編はプロレスラーという視点から、後編はSNSということを焦点に綴っていこうと思う。また、僕はテラスハウスという番組を観たことがないことも付け加えておきたい。

 まずはプロレスをあまり知らない人のためにプロレスの仕組みについて簡単に書いていこうと思う。ただし、ここではプロレスの競技自体のルールは書かないのでご了承願いたい。

 プロレスは格闘技であると同時に興行であるため、お客さんがいてなんぼの世界である。多くのお客さんに支持され、スポンサーがつき、テレビで放映されれば放映権料が入ってくる。客商売なので注目されればされるほど可能性が広がる世界だ。

プロレス団体によって色んなコンセプトがあるが、普通に肉体と肉体がぶつかり合うプロレスだけでは面白くなくて、そこにファンが興奮するようなストーリー性をもたせることが主流となっている。そのストーリーを作るうえで必要なのが「悪役」、つまりは「ヒール」といわれる存在だ。

「正義」対「悪」という図式―

時代劇も戦隊モノもそう、常にというわけではないが、戦いというところには正義と悪があり、正義が悪をなぎ倒す姿に人は喝采し、尊敬し、歓喜に浸るわけである。

 そして、ことプロレスにいたってはこの「ヒール」という役割が非常に重要であって、「ヒール」の仕事の出来不出来で「正義」と称される正規軍が引き立てられるかどうかが決まってくる。「ヒール」がさっぱり駄目なら正規軍も引き立てられないので、そうなるとストーリー的にもかなりつまらないものになってしまう。つまりは「ヒール」が仕事のできない「ヒール」であれば団体そのものの経営にも影響してしまうのだ。だから正規軍が引き立てられるようにするには「ヒール」は徹底的に仕事のできる「悪」であったほうがいいわけだ。

 ここで同じ興行でも例えば、舞台であったり映画を例にとると、その場では悪役として振る舞っていても舞台を降りれば悪役とは離れて普段の俳優さんに戻れてしまう。自分の舞台のPRもいつも通りのさわやかな姿で「悪役をやります」と言えばそれでいい。

 ところがプロレスというのは独特の世界で、悪役は普段から悪役である必要があるのだ。普段から悪者であるからこそ本場のプロレスも盛り上がる。全てがプロレスにつながっていくようになっているのだ。

 古くはダンプ松本ブル中野北斗晶もリング同様、公の場では悪に徹した。バラエティー番組に出ても共演者をボコボコにして悪事の限りを尽くした。プロレスに興味のない人までもをダンプ松本=悪という図式にする。これがプロレスラーのヒールとしての役目なんである。

 さて、僕はここで大きな疑問に直面するわけだが、木村選手が所属していたプロレス団体「スターダム」はなぜ彼女をテラスハウスという番組に出場させたのかだ。情報によればスターダム側が木村選手の名を広めたいために出したとの報道もある。名前を売るにはテラスハウスに出すのが手っ取り早いということだ。ただ、それにしても木村選手は絶対に出してはいけなかったのではないか。なぜなら彼女の役割は「ヒール」だからだ。

「ヒール」は公の場ではヒールでなければいけないことは先程説明したが、そんな彼女がヒールを捨てて「女の子」になってしまうような番組に出てしまうことにスターダムは何も思わなかったのだろうか。

 いくらヒールとはいえ、公の場では悪事を振る舞っても私生活は女の子になる。これはダンプ松本だろうがブル中野だろうが同じだ。余談だが、この二人は正規軍になりたくてレスラーになったのも関わらず、会社側から悪役になることを命じられ、泣く泣く悪役になったという。ブル中野も頭の半分をスキンヘッドにしたときは号泣したそうだ。家に帰ると鏡に写るのは半分スキンヘッドの自分なわけで女の子を捨ててしまった自分がいるわけだ。辛かっただろうと思う。ただそれでも公の場では絶対に女の子を見せることはなかった。「ヒール」を貫き通したのだ。本物のプロである。

 今回の木村花選手のテラスハウス出演はいわばダンプ松本が出演するようなもので、女の子になったダンプなんて誰も見たくない。そしてそんな悪役がいるプロレス団体なんて迫力も面白みもないのだ。

 そう考えると「スターダム」が木村選手を出演させた意図が全く見えない。百歩譲って、スターダムという団体をアピールするなら正規軍の選手を出演させればよかったのではないだろうか。そして男性との絡みに対して噛み付く木村花でよかったのではないかと思う。また、木村選手自身を売り出したいのであれば、「プロレスラー木村花」を売り出したかったのか、「人間、木村花」を売り出したかったのかが全然分からない。プロレスラー木村花を売り出したいんであれば、テラスハウスだろうが徹底的に悪役にするべきだった。共演者全員張り倒すくらいでないといけなかったのだ。

 今回の木村選手の死去はプロレス界にとって大きな損失だ。彼女が将来、女子プロレス界を牽引していた可能性は非常に高い。プロレスはバカではできないというのは本当の話で、とりわけ「ヒール」はどうすれば正規軍が引き立つか、観客に悪の自分を見せていくか、どうすれば盛り上がるのかなど考えていく必要がある。そういった上で木村選手はパフォーマーとしても十分にレベルの高い選手だった。本当に惜しい選手がいなくなってしまった。残念で悔しくて仕方がない。

後編はSNSについて書いていこうと思う。

 

夏の甲子園中止について

 いつもはオナラでいうところの「すかしっ屁」みたいな気の抜けるような内容のことを書いている僕も、今回ばかりは真面目なことを書く。

 夏の甲子園中止―

 あまりの衝撃的なニュースに、大きく失望した方からやむを得ないと思う方まで様々な意見があって、どれが正解というのはない。

 ただ、僕の結論からいって夏の甲子園は無観客でいいので「開催すべき」だと思う。

 高校野球、とりわけ「甲子園」というのは春夏の一大イベントであって、全国の球児はここを目標にして毎日を過ごしている。高校からではなく、それこそ中学生からこの「甲子園に出る」というのを目標にしている球児も多い。毎日毎日血の滲むような努力をし、心が折れそうなときがあったとしても、「甲子園に出る」という一つの夢を掴むためにまさに「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」の精神で、自分の気持ちと向き合ってきたわけだ。

 8月の状況がどうなっているかはわからない。ただ、コロナが落ち着いてきている今、開催できないというのは結論が早いのではないだろうか。

 街頭インタビューを見ていると、他のインターハイが中止になっている以上、野球だけ特別扱いするのはおかしいという意見もあった。その気持はわかる。僕も中止された競技の関係者なら同じことを考えるかもしれない。

 ただ、脚光を浴びるスポーツ、浴びないスポーツというのは確実にあって、オリンピックをみても全てのスポーツがオリンピックの競技にあるわけではない。オリンピックに採用されている競技はやはり脚光を浴びている競技ばかりだ。スポンサーが付く、付かないというのも競技によって大きく違ったりする。

 では脚光を浴びていないスポーツを選択したことが悪いのか?というとそうではない。そのスポーツを選択したことで才能が開花した人も少なくはないだろう。でももうこれは仕方がないと思うしかないのだ。そんなの納得できないという人もいるだろう。でももう仕方ない。そのスポーツを選んで、毎日毎日球児と同じく目標を持って取り組んできた高校生も多いはずだ。とても気の毒だと思うが、仕方がないんである。

 高校野球は高校スポーツの中でも最上級の花形スポーツで、今までもたくさんの感動を与えてきた。子供から大人までが高校生から感動をもらい、夢をもらい、尊敬し、そして青春のあり方や人生の生き方、その他のことを学んできたわけである。彼らの一つ一つの全力プレーが、全ての年齢層の感性を動かしてきたわけである。

 高校野球だけが、甲子園だけが人生ではない、これからの人生のほうが長いんだから、これをバネにして頑張ってほしいというのが大人の意見だろう。正直こういうほかない。それはあながち間違っていないのは事実だ。でも今、これを納得できる球児はあまりいないことだろう。

 なんとか今の球児を日々の努力を披露させてあげれる場を作ってほしい。せめて地方大会だけは全ての都道府県で開催してほしいものだ。そして大きな移動を伴わないようにしたいのであれば、秋の大会のように関西なら関西、四国なら四国と地域ごとに戦って、上位2校だけが甲子園でプレーできるようにすればいいのではないだろうか。こうすれば移動するチームも少ないしリスクも軽減されるはずである。

できれば高野連にはもう一回考え直してほしいものだ。

 

 

あいうえおエッセイ 「こ」―困った人

 毎回あいうえおエッセイを書くたびに、どの題材にしようかと考えたりネットで調べたりするわけだが、今回の「こ」についてはピタッとはまる題材がなく「困って」しまった。なのでどうせならと「困った」を題材にしたいと思う。

 困ったというと生活している限り困ったことだらけであって、人に関しても周りを見渡せば困った人だらけの世の中だ。隣に住んでいる住人が困った人でトラブルが絶えないとか、職場に困った人がいてストレスが溜まるとか、家族に困った者がいるなど、困った人というのはまさに隣り合わせで存在しているわけである。

 僕は18年間販売という職種に属していたが、毎日毎日困ったことだらけだった。

まずもって同じ売り場にもう困った人がいるということだ。勿論これについては毎回そうではなくて困った人が一切いない売り場があったのも事実だ。でも、売り場がよくても上司であったり、とりわけ一番困るのがお客さんである。

「お客様は神様」というのはお客さんが物を買ってくれる以上、それは事実であることは間違いない。ただ、それを逆手にとってお客さんだから何をしてもいいと勘違いしている方もいらっしゃる。

 僕は18年間、百貨店のテナントとして入っていたので、そこでは百貨店のクオリティの接客が求められた。いわゆる「上質」な接客である。ところが申し訳ないがやってくるお客さんは上質な方ばかりではない。中には非常に困った方というのもたくさんいるものだ。そんなお客さんでもやはりそこは「お客様は神様」なので、誠心誠意対応しようという心持ちでいるのが本物のプロであるのは間違いないと思う。でも実際はとっとと解決して関わりたくないというのが本音であって、そんな困ったお客さんに対しても神様と思える「聖人」のような心を持った販売員はほとんどいないと思ったほうがいい。なぜなら販売員は「サラリーマン」だからだ。

 これが例えば、個人事業主となると困ったお客さんであれ、感謝の度合いというのは変わってくるのかもしれない。何故なら生活にそのまま直結してしまうからだ。ところがサラリーマンであればお客さんに対しての対応が余程酷く、クビにならない限りは毎月決まった日にお給料が振り込まれるようになっている。そんな守られた生活が背景にある人間が困ったお客さんに対して「神様」などと思うはずがないのだ。

 困ったお客さんではなく本当にいいお客さんという方もたくさんいらっしゃる。いいお客さんというのはお金をたくさん落としてくれるお客さんではなく、人として魅力のあるお客さんだ。こういったお客さんに対しては得てして販売員のサービスも良かったりするものだ。なので「この店はサービスが悪い」などと店頭で叫ぶお客さんもいたりするが、それはアナタの態度が悪いと思っておいて間違いない。販売員も人間なので、態度の悪い人にサービスをしたいと思うことはないのだ。なのでお客さんもいいサービスをしてほしいと思うなら、お客さん自身もいいお客さんである必要がある。是非とも買い物される全ての人がそういった心持ちでいてほしいものだ。

 ところで話は変わるが、困った人というと実は自分自身だったりする。隣に困った人がいるということは自分自身が困った人であることなんて十分考えられる話だ。そして、

「私の周りは困った人ばっかりやぁ」と嘆く人に限って、その人が困った人である可能性は高いと考えられる。ということは僕自身が困った人ということになるわけだ。

 何とも「困った」話だ。